終わりなき日常を生きる

部屋を片付けていたら、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』の文庫版を発掘した。

 

自分がどう振舞えばよいか、規準が失われてしまった社会で、コミュニケーションスキルの高さによってひたすら相対的な日常を泳ぎ続ける道と、なにか規準がないかと彷徨い続ける道があり、後者の一部を回収していったのがオウム真理教である、というケースを題材にしながら、じゃあ終わりなき日常をどうやって生きていけばいいのさ、という問いに答えようとした本で、もう四半世紀近く前の本になるのに、いま読んでも全然色褪せない魅力がある。

 

この本が出版された段階では、終わりなき日常をどう生きるか、という問いに対して「まったり生きろ」という解を筆者は提示しているが、その解は実は全然強度がなかったというのは筆者も認めるところ(=ブルセラ少女はメンヘラ女性になってしまった)。

 

結局、意味のない社会には耐えられない僕たちがいて、であれば、何か意味を内面化しろ、そしてそのあとで相対化しろ、という主張に筆者は路線変更していくのだけど、この作業は存外にキツい、というのもまた経験的に理解されるところ。

 

僕が高校生の頃(ゼロ年代の中盤だ)、成績がよい同級生は軒並み、医学部進学を目指していた。それは、長引く不況でサラリーマン総崩れのなかで、医学部だけが明らかに「カタかった」のもあるけれど、命を救う営為に従事しているうちは、(大筋では)自分のやってることの意味を考えなくて済むという精神衛生上のメリットも、ハッキリと言明している奴はいなかったが、情緒不安定な高校生には大きな魅力だったのだろう。

 

僕は農学部に進学したが、その背景には、同様の理由があったのだと思う。つまり、命を救う営みが「飯の種」と「正しさ」を供給するのと同様に、食に携わる営みもまた、外的な規準として機能しうるということだ。

 

そして、それは僕だけではなく、割と広範にみられた現象だと思っていて、『もやしもん』人気であり、農学部への進学ブーム(そして新設ラッシュ)であり、新規就農や食や農を扱うベンチャーの登場に表れている。