30歳になったので20代を振り返る

30歳の誕生日を迎えた。認めたくはないが、日々齢を重ねていることを感じざるを得ない。ほうれい線は深くなり、髪の毛は白いものが混ざるようになった。赤身は食べられるが、脂身や霜降りは2切れもあれば十分だ。むしろ焼き魚がほしい。酒を飲むととにかく眠い。FM802は共感を持って聴くことが難しくなり、最近はアルファステーションを聴くことも増えた。父さんも母さんも髪の毛のボリュームが減っている。弟もこの春には就職する。

2009年1月時点の自分

20歳の自分は大学1回生だった。ほとんど起きていた記憶がないまま宝が池の自動車学校を修了し、未練たらたらだった高校時代の彼女に新しい恋人(ジャズサークルの先輩だったはずだ。UT許すまじ)ができたことを知り、サークルでは退局騒動を引き起こしていた。当時の髪の毛はオレンジだったと思う。右耳にピアス穴をあけたのもこの頃だったはず。

失恋と共に卑屈な自分が後ろに退いた

当時の僕は、この人以外に女性を好きになることはないと本気で思っていたから、なんとかして復縁ができないかと、そればかりを考えていた。代官山UNITのライブに誘って、夜にワンチャンせがんだこともある(断られました)。思い悩みすぎて一乗寺駅前の下宿で一日中布団を被って悶々としていたこともあるし、大学のカウンセリングセンターに通っていたこともある。ところが、まさに20歳になる直前、第50回11月祭を終えて、確か東京に行ってその子と話し、事実を知ったんだと思う(細かいところは覚えていない)。

いま思えばたかが1回の失恋なのだけど、当時の僕の語彙をそのまま援用すると「絶望の果てを見た」気持ちだった。このことは僕の気の持ちように大きな影響を与えていて、人間関係に対して、捨て鉢になったわけではないけれど、嫌われてもいいから好きに喋ろうという開き直りに近い態度を僕に対して規定することとなった(その結果がこの体たらくだ)。

僕は中学の終わりから高校にかけてが暗黒時代で、卑屈で、自虐的で、鬱っぽくなることもあって、幻想の他人と日々対話をしては布団をかぶる日々を繰り返していたのだけど、この件を境にそうした心持ちは徐々に影を潜め、かなり前向きに日々を過ごせるようになった。これは20代で最大の成果だったし、おかげで就活や卒論・修論で闇落ちすることもなく、今では日当たりのよい独房のようなワンルームに生を与えられている。

サークル

書き始めると止まらないから書かない。でもいつか総括しておいたほうがよいように思える。

控えめに言っても最高だった。なんて臆面もなく言えるようになったのは、年を取ったからだと思う。でも、振り返って最高だったと僕は言いたいから、常に今の生を全力で生きたほうがいい。ゆるっとやり過ごすと、そこの記憶が空白になってしまう。

青春の光だけは 色あせる事なく
気づけば時間だけ いつの間にか過ぎてた
出会って焦がして
傷ついてを手振って
踊り続けよ友よ
華やむ東京
 - フジファブリック「東京」

人を好きにもなったし、好かれもしたし、付き合いもした

大学の頃、付き合った人が2人いた。どちらもすぐに別れてしまった。中途半端なことをして、僕は人を傷つけた。文章に書けないような結末にもなってしまった。

好意を寄せてくれた人も2~3人いたけど、応えられなかった。好きになった人には手が届かなかった。社会人になってからも、なんとなくフラグっぽい人は定期的に出現したけれど、フラグが見えた瞬間に全部回避してしまった(そして闇落ちからの出会い系サイトへ)。

ものをつくる自分がいた

大学に入って、本格的にIllustratorに触れるようになった。ビラを作り、フリーペーパーを作り、webサイトを作り、東京のラジオ番組のスピンオフイベントも引っ張り出した。今思えば周囲の大人の厚意に甘えていただけなのだけど、でも、なにかを為そうとする真剣さは、人を巻き込む一番強い原動力なのだと思う。

ここに分岐点があったかもしれない。僕はここで、ものを作り、サービスを企画することを突き詰めなかった。割とあっさり、大学院で思い悩む日々とフィールドワークに舞台を移してしまった。後述するが、大学院で得たものはとても大きい。絶対に行ってよかった。けれど、好きを突き詰めなかったことは、今の僕から見るとロスタイムだったようにも感じられる。

べき論から解放されて、漂流した

「正しいもの探し」をする態度が改まったことは、僕にとって20代で解決できた大きな成果だった。

大学に入学した当初の僕は、(平たく言えば)地域おこし的なものに対しての関心があり、だからこそ、ネオリベが席巻していたゼロ年代後半の「地域なんてどうでもよくね?滅びてもよくね?」という言説(あるいは空気)に対抗できるアイデアや思想がほしくて、それを一生懸命探すためにラジオ番組のポッドキャスティングイベントを京都に呼んだり、地域おこしのイベントに顔を出して若手の論客に論破されたり、うっかり大学院にも進学してしまった。

けれど、事実言明(~である)から当為言明(~すべき)は導き出せない(し、絶対にそこには論理の飛躍があって、その飛躍こそがファインディングスだ)という話にぶつかってしまう。どれだけ事実を集めたところで、誰にとっても正しい規範的言説、なんてのはあり得ないと腹落ちしたとき、入学当初から心に掲げていた「地方/農村はなんとかなされるべきだ」という規範は相対化されてしまった。

(無自覚的にではあるが)自分の規範的言説を正当化するために選択的に材料を拾うような営為をしていた自分に対して猛烈な恥ずかしさを覚えると同時に、べき論からの解放はとても爽快な感覚をもたらした。ただ、あなたも私もポジショントークよね、という相対主義が自分の中で圧倒的な地位を確立してしまい、自分の依って立つ足場を失ったまま、大学院を修了することになった。

望ましいのは、「それでもなお」と歯を食いしばって思想的な彫琢を続けることだと思うのだが、当時の僕は相対主義のシニカルな切れ味に中てられていたとしか言いようがない。これは割と今も後遺症的に残っていて、行動の規準となる考えが弱いがために、中途半端な初職選択と転職を招いた、という意識がある。

沖縄

きっかけは農作業を手伝うサークルに入ったことだった。19歳の夏、先輩と一緒に沖縄に行った。那覇から高速バスに載って名護へ。名護から路線バスに揺られて東村へ。完熟のパインアップルを鎌で皮むきして食べた日から、結局大学の6年間で10回以上通ったのではなかったか。

農作業と言いながら、作業の半分くらいはビニールハウスの建設や修繕だった。やたら作業がきつくて、とにかく食事だけが楽しみだった。普通に日当もらえるくらいに働いたと思う。

修士論文(と呼ぶのも恥ずかしい代物)の調査先も沖縄だった。逗留先でプロテインの袋はネズミにかじられるし、ゴキブリは僕の二の腕を噛んだ。1日1,000円で借りたレンタカーに1玉3キロの冬瓜を100玉以上載せて沖縄道を走ったら、アクセルベタ踏みでも70km/hしか出なかった。エアコンを切ると5km/hスピードアップした。

スノーボールサンプリングと称して、農家さんにひたすら知り合いを紹介してくれとせがんだ。初めて訪問した先で食事をごちそうになった。3時間以上も話をしてくれた。最後は厚かましくも調査拠点としてタダで部屋を間借りした。それでも彼らは僕を受け入れてくれた。僕はまだ、彼らに何も返せていない。

大学院

授業はゆるゆるだった。バイトは辞めたけど奨学金を枠いっぱい借りていたし、TAやら研究費補助やらもあったから、生活は回っていた。ただただ大量の時間だけがあり、ただただ悩んで、話して終わった。僕は悩み始めるとまったく手が動かなくなる癖がある。これはあまり良いことではないという認識もある。さっさと本を読んで巨人の肩に乗っていれば解決した話も多かったように思う。大抵のことは車輪の再発明だった。でも、自分で発明した車輪は頑丈だ。

院生部屋で先輩と話をするのが好きだった。部屋には生協に売ってる50個入りのティーバッグがあって、ゼミの後で茶を沸かすのだけど、1個のティーバッグで8煎ぐらい紅茶を作った。味がなく、うすぼんやりした香りと色が着いたお湯を舐めながら、社会学やら人類学やらの輪郭を少しだけつかみ、いっちょまえに人の論文をdisり、でも自分はちっとも文章が書けなかった。

先輩がしきりに、この研究室ってのは「場」なんだよ、と話していた。特定の方法論を採用しているわけでもなし、洗練された知の教授体系があるわけでもなし、効率的な生産体制が組めているわけでもない。ぼんやりと関心を共有する(していない面も多い)メンバーが集まり、まったく門外漢の議論を聞き、なにか発言し、なにかを得る。緩やかに構成員が入れ替わり、逗留し、出立していく、湾処のような空間だった。

関学の研究室にも時々顔を出していた。Charlieから見ても、高原先生から見ても、僕が修士でやっていたことは全くイケていないように見えていたと思う。阪急電車に揺られて、甲東園の高級住宅地を抜けて、京大とは違う世界に飛び込んでまで求めていたことは、社会学的な分析態度というか、手法だったのだと思う。

修士論文でも、おもしろい論文を書ける人は書ける。僕は書けない側の人間だったという自覚がある。事実言明ばかりをひたすら積み重ねて、当為言明に飛躍することができなかった。練られていない、弱い思想を開陳するのが怖かった。

最近、やり直したいという気持ちを抱く機会が増えた。

アルバイト

とにかくカネがなかった。原因は明白で、農作業だなんだといってやたら旅行に出ていたことと、百万遍で後輩と飲むときは基本的に全おごりしていたからだった。

大学に入った直後に始めたのはジャスコの早朝品出しだった。どうせ惰眠をむさぼっている時間帯、仕事の責務感にかこつけて早起きしたほうがトータルで人生が有意義ではないかと思ったが、そもそも当時の僕には責務感が乏しかった。

ジャスコを半年で辞めた後、個別指導のアルバイトを始めた。時給に直すと1,200-1,300円くらいで、人気講師になるとコマ給も上がり、コマ数も増える仕組みだったが、多分僕は教えるということに関心がなかったのだと思う、ずっと月に2.5万程度の働きだった。仕事のこともほとんど覚えていない。教えている途中で寝ていた記憶もある。今でも当時の教え子のことをふと思い出すことがある。申し訳なさしかない。

現金取っ払いの単発バイトは無数にやった。美術館の搬入、狸谷山不動院の設営、柿ピーワサビ味の不良品にマジックで罰マークを付ける仕事、模試の監督、長刀鉾の粽売りetc. 雇用者側と揉めた記憶も多い。今とあんまり変わらない。まずい。

結局、一番長続きしたのは果物屋の店番と配達だった。ご主人の鷹揚さに助けられて2年半働くことができた。傷んでいるからという理由で勝手に果物を食べまくった。よく怒られなかったなと思う(時々怒られた)。この時に覚えた味と付け焼刃が、なんだかんだで現職で生きている。でも何よりよかったのは、錦市場という空間に身を置いていたことで、いわゆる「京都」の空気感を目いっぱい吸ったことが、今の僕の語りや振る舞いに影響を与えている。自転車に果物を括りつけて路地を分け入るときも、欠品を起こして藤井大丸に西瓜を買いに行ったときも、京都は移動祝祭日だった。

βエンドルフィンとセロトニンに支配された

元々、運動できる自分という像に対する憧憬はあったが、学校教育の体育のなかでスクールカーストをガンガン落とされてきた過去から、絶対に集団競技はしたくなかった(動けなくて笑われることが耐えられない)。

だけど、スポーツは誰しもがはじめは初心者で、へたくそな時期は避けがたい。だから僕は、極力心理的なダメージを少なくするため、課金することにした。とんかつ「おくだ」が胃にもたれたことを言い訳に、出町柳のスポーツジムに通うようになったのは大学院の中盤だったと思う。研究室にこもっていたら太ってきてさ、そろそろ運動しなきゃいけないと思って。でも走ると膝痛いじゃん?だからさ、プールでのんびり泳いでるんだよね。とかなんとか言っていたが、要は動けるようになりたかったのだ。

はじめは25mクロールがギリギリだった。平泳ぎでも100mが精いっぱいだった。週に1~2回、20時から中級のレッスンがあって、おばちゃんたちに混ざって24歳の大学院生が水泳を教わる。1時間で泳ぐ距離は500mから700m程度。それでも、『大きく振りかぶって』(3)の「恥ずかしくたって/一生懸命やっていいんだ」という台詞をお守りにして、生真面目に練習を続けた。

周りでしていた人がいるわけでもなく、誰に誘われたわけでもないけれど、社会人になってトライアスロンを始めた。きちんと競技をこなせるようになりたいと、人生で初めて自分の意志でスポーツをする社会集団(トライアスロンの練習チーム)にも飛び込んだ。取引先さんとの飲み会付きマラソン練習会にも顔を出せるようになった。今ではオープンウォーターの5,000mも泳げるし、東京→青森の750kmを自転車で走破することもできる(もうしたくない)。

養いが発生した

就活がうまくいかず、卒論も厳しい感じになっていた同期が、実家で引きこもりがちになっていた。まずいと思って、俺の家から大学に通えばいいじゃないかと誘った。男二人の奇妙な同居は断続的に2年ほど続き、その後紆余曲折を経て、奴は社会に復帰した。意外と人間はコケる(僕も自覚がないだけでコケているのかもしれない)。同級生を養うこともある。

就職して、3年で辞めた

学部生のときは広告代理店と総合商社だけエントリーして、秒殺で落ちた。

院生のときは広告代理店と戦コン、シンクタンクに絞って就活をした。RもDもHも秒で落ちたし、戦コンもTier 1は瞬殺だった。当時はそこそこ凹んだけれど、今思えばなぜ受かると思っていたのかが理解できない。

結局、会計系1社と総研系2社、そしてドリランドから内定をもらって総研系に就職した。院生気分を引きずって「世のため、人のため」的なことを考えたかった当時の僕の思考回路からすれば、総研系シンクタンクは給料ももらえて調査っぽいこともできる職場に見えて、しかも京大気質の自由な社風とくれば、持ち球のなかではベストな判断をしたと思うが、そもそもの持ち球に課題はなかったかと言われると言葉に窮してしまう。当時の僕は「新しい公共」的な空気のなかで「公は必ずしも官ではない」なんて粋がっていたが、仕事は官公庁の受託調査だった。

入社して2カ月目、種々の幸運が重なり、初めて書いた企画書で1,400万の仕事が受注できた。けれど僕にはプロジェクト進行能力が1ミリもなく、上司に散々迷惑をかけた。これは2年がかりの案件だったが、その後、このクライアントに提案した地方創生案件(1,000万)も総合計画策定支援(1,500万)も市街地観光の計画策定(1,400万)も全部コンペで落ちた。愛想をつかされたのだと理解している。

人に対する文句があまりに多いからか、社内で煙たがられていたところを、社歴30年の大先輩(大学の先輩でもある)に拾ってもらった。顧客に相対する態度、資料の量や質のコントロール、案件を着地させるためのネットワークなど、これが物事を前に進めるということなんだと感嘆した。

就活のとき、尊敬する人は誰ですかという質問がこの上なく苦手だったけれど、今ならさらっと打ち返すことができる。仕事という側面ではなるが、尊敬できる人に出会えたのは本当に良いことだ(自分にそうした感情があることを知って安堵した面も大きい)。

大学院時代、あれほど苦戦していたデータの整理や文字書きがさらさらとできるようになったのは、間違いなく初職のおかげだ。成果物はpower pointではなくwordが大半だったこともあり、伝えたいことは日本語で表現する必要があった。空虚な内容も含め、ひたすら日本語を書きまくったことは、ずっと大切にできる技術の基礎になったと思う。

人間性は1ミリも成長しなかった。最後は送別会で会社の文句をひたすら並べて、喧嘩別れのように飛び出してきた。会社を悪者にして自分を正当化していたが、実際は、自分自身「~がしたい」が見えていないがゆえに「~は嫌だ」を言い募っていただけに過ぎず、最低なことをした自覚がある。

転職したこと、上京したこと

初職の会社はとにかく辞める理由ばかりを探していて、いい感じの理由を見つけたのが入社3年目の10月。ここから転職エージェント5~6人と会った。一通り僕の話を聞いたあとでアクセンチュアを勧めてきたエージェントが複数人いた。当時のアクセンチュアは採用手数料に年収の50%まで出していた、らしい。800万の転職を1件決まれば400万円。

辞めたい気持ちはロケットが無事に大気圏外に出るために必要なのだけど、僕は永遠に宇宙を推進し続ける探査機ではないので、いい感じに着地をする必要があった。そのためには「ここがいい」という思いを整理する必要があり、怒ってばかりでは人生何ともならないと思い知った。

今の会社に決めたのは、端的に言うと自分の能力に自信がなかったからだ。シンクタンクの3年で、調査をして整理をして伝える力は身についたけれど、商売の勘所はなにもなかった。PFIアドバイザリーの仕事でCFの将来推計を出す作業でも門前の小僧レベルだった。

転職では食品流通を扱うベンチャー企業4社から内定めいたものをもらった。待遇だけで言えば結構いい会社もあった。自分でもビックリするような高いポジションで採用すると言ってくれた会社もあった。けれど僕は躊躇した。入社してすぐに、自分のプールが底をついてしまうと思ったからだ。

結局、大きな資金調達を一度決めて、60名規模まで膨らんでいた今の会社に決めた。決め手は現上司が話した「本当に小さな会社は、事業に関係ない雑務も多いし、一つ一つの芽がか弱くて失敗も多くて時間がかかるよ。うちぐらいがちょうどいいよ。勉強しに来なよ。」という言葉だった。酸っぱいブドウかもしれないけれど、この観点は僕にとってナイスな切り口だったと思う。給料は同世代と見劣りするし、SOも大したことないけれど。

辞める直前、仲良くしてもらっていた取引先の方からお茶に誘われた。「実はな、君を中途で採用できへんか、社内調整してたんや。けど一歩遅かったな。卒業前に先輩に告白する後輩みたいなもんや。ぜんぶ済んでから話してもしゃあないけど、話してすっきりしたかってん」と言われた。業務委託先の女社長(強い)にも激励してもらった。大学のときと同様、僕の周りにはたくさんの厚意があったけれど、彼らに何も返せなかった。

転職を機に上京した。僕は学生の頃、「東京」をまるで仮想敵のように捉えていた節があって、そうした気持ちは大学院修了の頃にはかなり和らいでいたけれど、まだそれでも、心理的な抵抗感が残っていた。わだかまりを解消するためには、体を張って東京で暮らして確かめてみることだ、と思った。

東京には東京の社会があった。関西とはプロトコルが色々と異なるから戸惑うことも多いけれど、徐々に要領をつかんできた。平たく言えば住めば都という話で、東京に対するわだかまりは、脳内に飼っている幻想の他人との対話の成果に過ぎなかった。

家族とか

父さんは長きにわたる転勤から解放され金沢に戻ってきた。そして定年を迎え、再雇用フェーズに突入した。母さんは来年で還暦を迎える。母さんと弟の2人暮らしは相当キツいものがあったようだが、弟も浪人の末に大学に入り、当然のような顔をして大学院に進み、今年の春から富山で働く。実家から車で1時間もかからない工場に勤めるという。弟には頭が上がらない。

母方の祖父はかなり老いた。自分で立ち上げた設計事務所は高度経済成長の波にうまく乗り、現役のころは本当にパワフルな人だった。昔からハゲてたけど。母方の祖母はまだ元気だけど、当然ながら、昔のように色々振り回すわけにはいかないと思っている。けれども、30歳になっても僕はかわいい孫なので、目いっぱい甘えることにしている。

父方の祖母は去年亡くなった。最後2年ほどは会っていなかった。父さんも来なくていいと言っていたし、その言葉に安堵している自分もいた。直後の日記を引用する。

生前の祖母は愚痴の多い人で、どれだけ父さんや母さんが面倒を見ても、結局は年長の兄弟に心を寄せてしまう人で、いま、自身に眼差しを向けてくれる人に感謝できない人だったことを思い出した。

これからのこと

両親から折に触れて結婚の話をする。まったくできる気がしない。けれど、前職の先輩(オタク)のケースとして、自分がタイプかつ先輩に対して反応しやすそうな属性の40人にメールを送り、16人から返信をもらい、6件並行して、1件成約させたというものがある。同じアプローチをやってみる価値はあると考えている。誰でもいいからアプリを使うんじゃなくて、誰でもよくないからアプリで母集団を増やすんだと思う。砂金取りと一緒だ。

そして着手するなら早いほうがいい。どんな試行でもとりあえず着手して、早く失敗して学びを得て、そこから考えたほうがよい。人生は終わらないアジャイル開発だ。

仕事も考える。今の会社は残業もないし悪い会社ではないが、ずっと在籍しているイメージがない。大気圏外に飛び出すほどの燃料はないので、新しい惑星の側の引力を相当に高める必要がある。まずいことに景気が後退局面に差し掛かっている。本当は2020年のオリンピックを節目にしようと思っていたけれど、前倒しで判断に迫られるような気がしている。

各論はあるが総論はないし、四半期目標は設定できても10年の大計はない。けれど、20代のような、振れ幅の大きい試行錯誤では蓄積が薄く広くなってしまうので後々しんどそうな予感がしている。もうすこしフォーカスを絞って、いっぱしのなにかを積み上げるようにしたい。