模擬店の権利売買は禁止されています
エピローグ
僕は大学生の頃、学園祭の実行委員会(の下に属する事務局)に身を置いていたのだけれど、その組織は学生運動の名残か、なんでもかんでも立て看板を使って周知しようとしていた。マクドナルドにうんこ色を強いる条例が強化される以前、学内に足場が残っていれば、百万遍に向かって自由に意思表明ができた時代の話。
意志表明すると言っても、その組織が掲げる看板には論争を巻き起こす主張も過激な思想もこれっぽちも記載されることはなかった。
むしろ市政だよりと同じくらい、ユニバーサルデザインというか、ノーマライズされているというか、行政的だったその組織が掲げる看板は、
事務局で学園祭の運営を担いませんか。
学園祭に企画を出しませんか。
パンフレットを販売しています。
こんな企画を開催しています。
うんぬん。
かんぬん。
といった至極穏当な内容が大半を占めていた(穏当すぎるせいか、あるいは僕が看板描きが苦手だったせいか、もうほとんど思い出せない)。
けれども1枚だけ、警告めいた内容を告知する看板があって、いまでも強く印象に残っている。
模擬店の権利売買は禁止されています
学園祭の模擬店なんて存在は、食品流通の端っこに身を寄せている今の立場から見れば卒倒するぐらいアレでコレなものだけど、公称15万人の人出に支えられ、口に含むことができそうなものを売っている限り、まず大抵は儲けが出た。もちろん労賃は含めない。
儲けが出る。しかも青春の1ページも彩ることができる。いきおい、学生はなんとかして模擬店の出店権利を獲得しようと策を弄するのだけど、その行きつくところに出店権利の売買が存在していた。
出店1コマ数万円程度の話。築地仲卸の権利はバブル期には億を超えていたらしいので、まあまあ可愛い金額ではあるのだけど、曲がりなりにも国有地、曲がりなりにも学問の府。あんまり派手にやらかすと権力が牙をむくやもしれず、運営サイドは権利売買を認めない立場に立たざるを得ないわけで、その意思は件の標語として表明されていた。
禁止されています
この表現が目指すところは、看板を設置する主体は、自らの意思を表明せずに、けれど自らの本懐(=模擬店の権利売買の抑制)を遂げようとする、というものだ。
私たちが禁止だと宣言しているわけではなくてですね、ルールでそう定まってまして。ええ、申し訳ないんですけど、ナシの方向で、お願いします。
この表現には、意思とか主張とか思想とか正義とか正統性とかあるべき論とか、そういう理念的なものをすべていったん横に置いて、ただただマネジメントのノウハウだけが純粋に結実している。
そのことに19歳の僕は感嘆した。明日から自分も使おうプラスの感情も、それは課題の先送りだ膝詰め直談判こそ正義だという怒りの感情も湧かなかった。
ただ、不思議で珍しい植物を見ているような気持ちになった。
その後、その組織からは引退し、大学院に進学した僕は、この珍しい植物のことをいったんは忘れたつもりでいた。
世の中にめっちゃ生えとるやん
大学院を修士で終えて最初に就職したのが銀行の子会社のシンクタンク。配属された大阪の事業所は、関西のええ大学を出たインテリ崩れがメンバーの大半だったので、職場でこの植物を見る機会はほとんどなかった。
けれど、事務連絡や全体ミーティングなんかで会話をする機会があった、銀行からの天下り管理職たちは、気持ちいいぐらい一様に同じことを口にするのだった。
それは先日制定された規程で定められておりまして。
それは部長会で決定されておりまして。
それは取締役会で決議されたものでございまして。
そう、不思議な植物は職場に群生していたのだった。
しかも、見る限り、どうも若手社員をいなすテクニックとしてそういう物言いをしているわけでもなさそうで、自分のなかに、自分で考えた言葉をなにも持ってなくて、ひたすら他者の意志を取り次いでいるだけのように見えた。
それが、25歳の僕にはどうしようもなく腹立たしかった。
「僕」の意見はいらない
更に6年経って、31歳になった。働き始めて7年目を迎えた。
僕もある程度仕事に慣れてきて、ぼちぼちやっていけるようになってきたけれど、いまでもよく失敗するのが、ここだ。
同僚に対して日常的に声を荒げる上司にモノを言うとき。
「その言い方はよくないと思います」と面と向かって言うのは×。
「ビジネスガイドライン規程に違反している恐れがあります」と匿名の指摘をフォームに投稿するのは△。
知らぬが仏を決め込むのが○。
雑な仕事をする同僚に指摘するとき。
「そんな仕事じゃ取引先怒っちゃうよ、ちゃんとしようよ」と指摘するのは×。
「手順書通りの作業をしておらず、取引先からクレームが来ています」と報告を上げるのは△。
自分はそっと離れてミスに巻き込まれないようにするのが○。
いや、なにがマルでなにがバツなのかよく分かんないんだけどさ。
ただ痛感するのは、会社のなかで「僕はこう思う」よりも、「それはこうなってます」のほうが、はるかにスピードが速いということで、それは、単に僕が信頼されていないとか、そういう事情もあるのかもしれないけれど、根本にあるのは、そもそもこれどうなんだっけ、なんて考える人も場面もほとんどなくて、大半の人は、借り物の思想や意見を見つけて、その中身の咀嚼をせずに、第三者が言っているということを以て切り抜けているからだと、理解している。
仕事に思い入れがあると、これはつらい。
仕事への熱量は、案件に対する自分の意志をどんどん強めていく。
この場面でこそ、テクニックとしての「禁止されています」が使えればよいのだろうけれど、つい、自分の意志をそのまま発露してしまう。
では、仕事に思い入れがなかったら?
さっさと終わらせたい、なるべく楽して褒められたい、そう思っていたら?
僕も容易に、誰かの取次になってしまうと思う。怖いけれど。楽だから。きっと。