山に登る

実家から歩いて15分くらいの高台からは金沢の町並みが一望できて、僕はその景色がお気に入りだった。高台の斜面には畑が広がっていて、畑の向こうには並木のきれいな幹線道路が走り、その向こうは海まで町が続いている。

 

高校生だった僕は、この景色を守る仕事をしたいと考えていた。いや、いま思えば、感傷的で観念的だった僕は、景色からそういう意味を見出すことで、伸び悩む学業成績のもとで揺れる進路を固めたかったのかもしれない。

 

僕は、その時々で、自分が大事に思う人をこの高台に連れてきた。自分が大事にしているものを、その人と共有したかったのだと思う。中学からの親友、高校時代に付き合っていた人、大学時代の友人。もう10年近く、一緒に高台に上った人はいない。

 

この夏、久しぶりに高台へ上った。一望する金沢の町は、僕以外の誰かによって、丁寧に維持されている。僕は東京で24平米の部屋に住みながら、小さな会社で日常に流されている。この景色を守るわけでもなく、何かを生み出すわけでもなく。

転んだ

大田市場からの退勤途中、乗ろうと思ったバスにタッチの差で乗りそびれ、次のバス停で追いつこうと走り出した瞬間、足がもつれて派手に転倒した。

 

左手に握っていたiphoneはガラスが粉々になり、中のパーツがむき出しになった。右手は手のひらを思いっきりレンガ舗装の歩道に擦り付けて、大きな擦過傷を作ってしまった。

 

痛くて涙が出そうになったし、真夏の真昼に、誰もいない大田市場で一人こけるシチュエーションが悲しすぎて泣きそうになった。のだけれど、泣いても誰も反応しないのだと思った途端に、涙が引っ込んだ。

 

誰かに甘えたくて僕は泣こうとした。けれど、その誰かなんて存在しないので、僕は泣くことをやめた。そう理解したとき、これを引き受けてあと50年生きるの、しんどいな・・・と思ってしまった。

 

 

 

 

ジムの帰りに、学芸大学駅前の八百屋で桃を買った。
3個で600円、今の稼ぎを考えると贅沢品なのだが、これも芸の肥やしだと、自分に言い訳をして財布を開く。

 

10年前の夏、僕は京都の駿台で浪人生活を送っていて、教室に詰め込まれた100人の同類を前に、現代文の講師が桃への熱い思いを語っていたことを思い出す。
「私はね、桃がすごい好きで、夏になると、毎日1個食べるんですよ。割れ目に沿って包丁を入れて、手でくるっと回すと半分に割れるんです。毎日桃を食べるなんて、皆さんからみたら贅沢だと思うでしょ。でもね、1個100円、これが自分へのご褒美なんですよ」

 

進学校を卒業したばかりの当時の自分は、そもそも予備校の講師という仕事を馬鹿にしていたし(受験を突破するためのノウハウの伝授に人生を捧げるなんて、と本気で思っていたのだ)、発言から垣間見える講師の小市民的ぶりに、苛立ちに近い感情すら抱いた記憶がある。先生、人生それでいいんですか。

 

あれから10年、29歳になった僕は、築40年のワンルームマンションで桃の割れ目に包丁を入れる。桃に喜びを見出す日常に、そして、その桃すら買うことを躊躇してしまう現状に、こんなはずじゃなかったのにと思いながら、桃を食べている。