模擬店の権利売買は禁止されています

エピローグ

僕は大学生の頃、学園祭の実行委員会(の下に属する事務局)に身を置いていたのだけれど、その組織は学生運動の名残か、なんでもかんでも立て看板を使って周知しようとしていた。マクドナルドにうんこ色を強いる条例が強化される以前、学内に足場が残っていれば、百万遍に向かって自由に意思表明ができた時代の話。

意志表明すると言っても、その組織が掲げる看板には論争を巻き起こす主張も過激な思想もこれっぽちも記載されることはなかった。
むしろ市政だよりと同じくらい、ユニバーサルデザインというか、ノーマライズされているというか、行政的だったその組織が掲げる看板は、

事務局で学園祭の運営を担いませんか。
学園祭に企画を出しませんか。
パンフレットを販売しています。
こんな企画を開催しています。
うんぬん。
かんぬん。

といった至極穏当な内容が大半を占めていた(穏当すぎるせいか、あるいは僕が看板描きが苦手だったせいか、もうほとんど思い出せない)。

けれども1枚だけ、警告めいた内容を告知する看板があって、いまでも強く印象に残っている。

模擬店の権利売買は禁止されています

学園祭の模擬店なんて存在は、食品流通の端っこに身を寄せている今の立場から見れば卒倒するぐらいアレでコレなものだけど、公称15万人の人出に支えられ、口に含むことができそうなものを売っている限り、まず大抵は儲けが出た。もちろん労賃は含めない。

儲けが出る。しかも青春の1ページも彩ることができる。いきおい、学生はなんとかして模擬店の出店権利を獲得しようと策を弄するのだけど、その行きつくところに出店権利の売買が存在していた。

出店1コマ数万円程度の話。築地仲卸の権利はバブル期には億を超えていたらしいので、まあまあ可愛い金額ではあるのだけど、曲がりなりにも国有地、曲がりなりにも学問の府。あんまり派手にやらかすと権力が牙をむくやもしれず、運営サイドは権利売買を認めない立場に立たざるを得ないわけで、その意思は件の標語として表明されていた。

禁止されています

この表現が目指すところは、看板を設置する主体は、自らの意思を表明せずに、けれど自らの本懐(=模擬店の権利売買の抑制)を遂げようとする、というものだ。
私たちが禁止だと宣言しているわけではなくてですね、ルールでそう定まってまして。ええ、申し訳ないんですけど、ナシの方向で、お願いします。

この表現には、意思とか主張とか思想とか正義とか正統性とかあるべき論とか、そういう理念的なものをすべていったん横に置いて、ただただマネジメントのノウハウだけが純粋に結実している。

そのことに19歳の僕は感嘆した。明日から自分も使おうプラスの感情も、それは課題の先送りだ膝詰め直談判こそ正義だという怒りの感情も湧かなかった。
ただ、不思議で珍しい植物を見ているような気持ちになった。

その後、その組織からは引退し、大学院に進学した僕は、この珍しい植物のことをいったんは忘れたつもりでいた。

世の中にめっちゃ生えとるやん

大学院を修士で終えて最初に就職したのが銀行の子会社のシンクタンク。配属された大阪の事業所は、関西のええ大学を出たインテリ崩れがメンバーの大半だったので、職場でこの植物を見る機会はほとんどなかった。

けれど、事務連絡や全体ミーティングなんかで会話をする機会があった、銀行からの天下り管理職たちは、気持ちいいぐらい一様に同じことを口にするのだった。

それは先日制定された規程で定められておりまして。
それは部長会で決定されておりまして。
それは取締役会で決議されたものでございまして。

そう、不思議な植物は職場に群生していたのだった。
しかも、見る限り、どうも若手社員をいなすテクニックとしてそういう物言いをしているわけでもなさそうで、自分のなかに、自分で考えた言葉をなにも持ってなくて、ひたすら他者の意志を取り次いでいるだけのように見えた。

それが、25歳の僕にはどうしようもなく腹立たしかった。

「僕」の意見はいらない

更に6年経って、31歳になった。働き始めて7年目を迎えた。

僕もある程度仕事に慣れてきて、ぼちぼちやっていけるようになってきたけれど、いまでもよく失敗するのが、ここだ。

同僚に対して日常的に声を荒げる上司にモノを言うとき。
「その言い方はよくないと思います」と面と向かって言うのは×。
「ビジネスガイドライン規程に違反している恐れがあります」と匿名の指摘をフォームに投稿するのは△。
知らぬが仏を決め込むのが○。

雑な仕事をする同僚に指摘するとき。
「そんな仕事じゃ取引先怒っちゃうよ、ちゃんとしようよ」と指摘するのは×。
「手順書通りの作業をしておらず、取引先からクレームが来ています」と報告を上げるのは△。
自分はそっと離れてミスに巻き込まれないようにするのが○。

いや、なにがマルでなにがバツなのかよく分かんないんだけどさ。
ただ痛感するのは、会社のなかで「僕はこう思う」よりも、「それはこうなってます」のほうが、はるかにスピードが速いということで、それは、単に僕が信頼されていないとか、そういう事情もあるのかもしれないけれど、根本にあるのは、そもそもこれどうなんだっけ、なんて考える人も場面もほとんどなくて、大半の人は、借り物の思想や意見を見つけて、その中身の咀嚼をせずに、第三者が言っているということを以て切り抜けているからだと、理解している。

仕事に思い入れがあると、これはつらい。
仕事への熱量は、案件に対する自分の意志をどんどん強めていく。
この場面でこそ、テクニックとしての「禁止されています」が使えればよいのだろうけれど、つい、自分の意志をそのまま発露してしまう。

では、仕事に思い入れがなかったら?
さっさと終わらせたい、なるべく楽して褒められたい、そう思っていたら?
僕も容易に、誰かの取次になってしまうと思う。怖いけれど。楽だから。きっと。

夏の夜・実家

実家は川筋の斜面に建っていて、川筋側の窓は視界を遮るものが何もない。夏の夜でも窓を開ければ風がよく抜けて、エアコンをつけることはほとんどない。

家族は僕を残して全員就寝し、僕はひとり、窓のそばでパソコンを叩いている。窓の外では虫の鳴き声がして、カーテンは風でぼんやり揺れている。風と共に、うっすらと夏の草いきれが運ばれてくる。

僕はこれが好きで、だからこの町が好きだったのだ。

30歳になったので20代を振り返る

30歳の誕生日を迎えた。認めたくはないが、日々齢を重ねていることを感じざるを得ない。ほうれい線は深くなり、髪の毛は白いものが混ざるようになった。赤身は食べられるが、脂身や霜降りは2切れもあれば十分だ。むしろ焼き魚がほしい。酒を飲むととにかく眠い。FM802は共感を持って聴くことが難しくなり、最近はアルファステーションを聴くことも増えた。父さんも母さんも髪の毛のボリュームが減っている。弟もこの春には就職する。

2009年1月時点の自分

20歳の自分は大学1回生だった。ほとんど起きていた記憶がないまま宝が池の自動車学校を修了し、未練たらたらだった高校時代の彼女に新しい恋人(ジャズサークルの先輩だったはずだ。UT許すまじ)ができたことを知り、サークルでは退局騒動を引き起こしていた。当時の髪の毛はオレンジだったと思う。右耳にピアス穴をあけたのもこの頃だったはず。

失恋と共に卑屈な自分が後ろに退いた

当時の僕は、この人以外に女性を好きになることはないと本気で思っていたから、なんとかして復縁ができないかと、そればかりを考えていた。代官山UNITのライブに誘って、夜にワンチャンせがんだこともある(断られました)。思い悩みすぎて一乗寺駅前の下宿で一日中布団を被って悶々としていたこともあるし、大学のカウンセリングセンターに通っていたこともある。ところが、まさに20歳になる直前、第50回11月祭を終えて、確か東京に行ってその子と話し、事実を知ったんだと思う(細かいところは覚えていない)。

いま思えばたかが1回の失恋なのだけど、当時の僕の語彙をそのまま援用すると「絶望の果てを見た」気持ちだった。このことは僕の気の持ちように大きな影響を与えていて、人間関係に対して、捨て鉢になったわけではないけれど、嫌われてもいいから好きに喋ろうという開き直りに近い態度を僕に対して規定することとなった(その結果がこの体たらくだ)。

僕は中学の終わりから高校にかけてが暗黒時代で、卑屈で、自虐的で、鬱っぽくなることもあって、幻想の他人と日々対話をしては布団をかぶる日々を繰り返していたのだけど、この件を境にそうした心持ちは徐々に影を潜め、かなり前向きに日々を過ごせるようになった。これは20代で最大の成果だったし、おかげで就活や卒論・修論で闇落ちすることもなく、今では日当たりのよい独房のようなワンルームに生を与えられている。

サークル

書き始めると止まらないから書かない。でもいつか総括しておいたほうがよいように思える。

控えめに言っても最高だった。なんて臆面もなく言えるようになったのは、年を取ったからだと思う。でも、振り返って最高だったと僕は言いたいから、常に今の生を全力で生きたほうがいい。ゆるっとやり過ごすと、そこの記憶が空白になってしまう。

青春の光だけは 色あせる事なく
気づけば時間だけ いつの間にか過ぎてた
出会って焦がして
傷ついてを手振って
踊り続けよ友よ
華やむ東京
 - フジファブリック「東京」

人を好きにもなったし、好かれもしたし、付き合いもした

大学の頃、付き合った人が2人いた。どちらもすぐに別れてしまった。中途半端なことをして、僕は人を傷つけた。文章に書けないような結末にもなってしまった。

好意を寄せてくれた人も2~3人いたけど、応えられなかった。好きになった人には手が届かなかった。社会人になってからも、なんとなくフラグっぽい人は定期的に出現したけれど、フラグが見えた瞬間に全部回避してしまった(そして闇落ちからの出会い系サイトへ)。

ものをつくる自分がいた

大学に入って、本格的にIllustratorに触れるようになった。ビラを作り、フリーペーパーを作り、webサイトを作り、東京のラジオ番組のスピンオフイベントも引っ張り出した。今思えば周囲の大人の厚意に甘えていただけなのだけど、でも、なにかを為そうとする真剣さは、人を巻き込む一番強い原動力なのだと思う。

ここに分岐点があったかもしれない。僕はここで、ものを作り、サービスを企画することを突き詰めなかった。割とあっさり、大学院で思い悩む日々とフィールドワークに舞台を移してしまった。後述するが、大学院で得たものはとても大きい。絶対に行ってよかった。けれど、好きを突き詰めなかったことは、今の僕から見るとロスタイムだったようにも感じられる。

べき論から解放されて、漂流した

「正しいもの探し」をする態度が改まったことは、僕にとって20代で解決できた大きな成果だった。

大学に入学した当初の僕は、(平たく言えば)地域おこし的なものに対しての関心があり、だからこそ、ネオリベが席巻していたゼロ年代後半の「地域なんてどうでもよくね?滅びてもよくね?」という言説(あるいは空気)に対抗できるアイデアや思想がほしくて、それを一生懸命探すためにラジオ番組のポッドキャスティングイベントを京都に呼んだり、地域おこしのイベントに顔を出して若手の論客に論破されたり、うっかり大学院にも進学してしまった。

けれど、事実言明(~である)から当為言明(~すべき)は導き出せない(し、絶対にそこには論理の飛躍があって、その飛躍こそがファインディングスだ)という話にぶつかってしまう。どれだけ事実を集めたところで、誰にとっても正しい規範的言説、なんてのはあり得ないと腹落ちしたとき、入学当初から心に掲げていた「地方/農村はなんとかなされるべきだ」という規範は相対化されてしまった。

(無自覚的にではあるが)自分の規範的言説を正当化するために選択的に材料を拾うような営為をしていた自分に対して猛烈な恥ずかしさを覚えると同時に、べき論からの解放はとても爽快な感覚をもたらした。ただ、あなたも私もポジショントークよね、という相対主義が自分の中で圧倒的な地位を確立してしまい、自分の依って立つ足場を失ったまま、大学院を修了することになった。

望ましいのは、「それでもなお」と歯を食いしばって思想的な彫琢を続けることだと思うのだが、当時の僕は相対主義のシニカルな切れ味に中てられていたとしか言いようがない。これは割と今も後遺症的に残っていて、行動の規準となる考えが弱いがために、中途半端な初職選択と転職を招いた、という意識がある。

沖縄

きっかけは農作業を手伝うサークルに入ったことだった。19歳の夏、先輩と一緒に沖縄に行った。那覇から高速バスに載って名護へ。名護から路線バスに揺られて東村へ。完熟のパインアップルを鎌で皮むきして食べた日から、結局大学の6年間で10回以上通ったのではなかったか。

農作業と言いながら、作業の半分くらいはビニールハウスの建設や修繕だった。やたら作業がきつくて、とにかく食事だけが楽しみだった。普通に日当もらえるくらいに働いたと思う。

修士論文(と呼ぶのも恥ずかしい代物)の調査先も沖縄だった。逗留先でプロテインの袋はネズミにかじられるし、ゴキブリは僕の二の腕を噛んだ。1日1,000円で借りたレンタカーに1玉3キロの冬瓜を100玉以上載せて沖縄道を走ったら、アクセルベタ踏みでも70km/hしか出なかった。エアコンを切ると5km/hスピードアップした。

スノーボールサンプリングと称して、農家さんにひたすら知り合いを紹介してくれとせがんだ。初めて訪問した先で食事をごちそうになった。3時間以上も話をしてくれた。最後は厚かましくも調査拠点としてタダで部屋を間借りした。それでも彼らは僕を受け入れてくれた。僕はまだ、彼らに何も返せていない。

大学院

授業はゆるゆるだった。バイトは辞めたけど奨学金を枠いっぱい借りていたし、TAやら研究費補助やらもあったから、生活は回っていた。ただただ大量の時間だけがあり、ただただ悩んで、話して終わった。僕は悩み始めるとまったく手が動かなくなる癖がある。これはあまり良いことではないという認識もある。さっさと本を読んで巨人の肩に乗っていれば解決した話も多かったように思う。大抵のことは車輪の再発明だった。でも、自分で発明した車輪は頑丈だ。

院生部屋で先輩と話をするのが好きだった。部屋には生協に売ってる50個入りのティーバッグがあって、ゼミの後で茶を沸かすのだけど、1個のティーバッグで8煎ぐらい紅茶を作った。味がなく、うすぼんやりした香りと色が着いたお湯を舐めながら、社会学やら人類学やらの輪郭を少しだけつかみ、いっちょまえに人の論文をdisり、でも自分はちっとも文章が書けなかった。

先輩がしきりに、この研究室ってのは「場」なんだよ、と話していた。特定の方法論を採用しているわけでもなし、洗練された知の教授体系があるわけでもなし、効率的な生産体制が組めているわけでもない。ぼんやりと関心を共有する(していない面も多い)メンバーが集まり、まったく門外漢の議論を聞き、なにか発言し、なにかを得る。緩やかに構成員が入れ替わり、逗留し、出立していく、湾処のような空間だった。

関学の研究室にも時々顔を出していた。Charlieから見ても、高原先生から見ても、僕が修士でやっていたことは全くイケていないように見えていたと思う。阪急電車に揺られて、甲東園の高級住宅地を抜けて、京大とは違う世界に飛び込んでまで求めていたことは、社会学的な分析態度というか、手法だったのだと思う。

修士論文でも、おもしろい論文を書ける人は書ける。僕は書けない側の人間だったという自覚がある。事実言明ばかりをひたすら積み重ねて、当為言明に飛躍することができなかった。練られていない、弱い思想を開陳するのが怖かった。

最近、やり直したいという気持ちを抱く機会が増えた。

アルバイト

とにかくカネがなかった。原因は明白で、農作業だなんだといってやたら旅行に出ていたことと、百万遍で後輩と飲むときは基本的に全おごりしていたからだった。

大学に入った直後に始めたのはジャスコの早朝品出しだった。どうせ惰眠をむさぼっている時間帯、仕事の責務感にかこつけて早起きしたほうがトータルで人生が有意義ではないかと思ったが、そもそも当時の僕には責務感が乏しかった。

ジャスコを半年で辞めた後、個別指導のアルバイトを始めた。時給に直すと1,200-1,300円くらいで、人気講師になるとコマ給も上がり、コマ数も増える仕組みだったが、多分僕は教えるということに関心がなかったのだと思う、ずっと月に2.5万程度の働きだった。仕事のこともほとんど覚えていない。教えている途中で寝ていた記憶もある。今でも当時の教え子のことをふと思い出すことがある。申し訳なさしかない。

現金取っ払いの単発バイトは無数にやった。美術館の搬入、狸谷山不動院の設営、柿ピーワサビ味の不良品にマジックで罰マークを付ける仕事、模試の監督、長刀鉾の粽売りetc. 雇用者側と揉めた記憶も多い。今とあんまり変わらない。まずい。

結局、一番長続きしたのは果物屋の店番と配達だった。ご主人の鷹揚さに助けられて2年半働くことができた。傷んでいるからという理由で勝手に果物を食べまくった。よく怒られなかったなと思う(時々怒られた)。この時に覚えた味と付け焼刃が、なんだかんだで現職で生きている。でも何よりよかったのは、錦市場という空間に身を置いていたことで、いわゆる「京都」の空気感を目いっぱい吸ったことが、今の僕の語りや振る舞いに影響を与えている。自転車に果物を括りつけて路地を分け入るときも、欠品を起こして藤井大丸に西瓜を買いに行ったときも、京都は移動祝祭日だった。

βエンドルフィンとセロトニンに支配された

元々、運動できる自分という像に対する憧憬はあったが、学校教育の体育のなかでスクールカーストをガンガン落とされてきた過去から、絶対に集団競技はしたくなかった(動けなくて笑われることが耐えられない)。

だけど、スポーツは誰しもがはじめは初心者で、へたくそな時期は避けがたい。だから僕は、極力心理的なダメージを少なくするため、課金することにした。とんかつ「おくだ」が胃にもたれたことを言い訳に、出町柳のスポーツジムに通うようになったのは大学院の中盤だったと思う。研究室にこもっていたら太ってきてさ、そろそろ運動しなきゃいけないと思って。でも走ると膝痛いじゃん?だからさ、プールでのんびり泳いでるんだよね。とかなんとか言っていたが、要は動けるようになりたかったのだ。

はじめは25mクロールがギリギリだった。平泳ぎでも100mが精いっぱいだった。週に1~2回、20時から中級のレッスンがあって、おばちゃんたちに混ざって24歳の大学院生が水泳を教わる。1時間で泳ぐ距離は500mから700m程度。それでも、『大きく振りかぶって』(3)の「恥ずかしくたって/一生懸命やっていいんだ」という台詞をお守りにして、生真面目に練習を続けた。

周りでしていた人がいるわけでもなく、誰に誘われたわけでもないけれど、社会人になってトライアスロンを始めた。きちんと競技をこなせるようになりたいと、人生で初めて自分の意志でスポーツをする社会集団(トライアスロンの練習チーム)にも飛び込んだ。取引先さんとの飲み会付きマラソン練習会にも顔を出せるようになった。今ではオープンウォーターの5,000mも泳げるし、東京→青森の750kmを自転車で走破することもできる(もうしたくない)。

養いが発生した

就活がうまくいかず、卒論も厳しい感じになっていた同期が、実家で引きこもりがちになっていた。まずいと思って、俺の家から大学に通えばいいじゃないかと誘った。男二人の奇妙な同居は断続的に2年ほど続き、その後紆余曲折を経て、奴は社会に復帰した。意外と人間はコケる(僕も自覚がないだけでコケているのかもしれない)。同級生を養うこともある。

就職して、3年で辞めた

学部生のときは広告代理店と総合商社だけエントリーして、秒殺で落ちた。

院生のときは広告代理店と戦コン、シンクタンクに絞って就活をした。RもDもHも秒で落ちたし、戦コンもTier 1は瞬殺だった。当時はそこそこ凹んだけれど、今思えばなぜ受かると思っていたのかが理解できない。

結局、会計系1社と総研系2社、そしてドリランドから内定をもらって総研系に就職した。院生気分を引きずって「世のため、人のため」的なことを考えたかった当時の僕の思考回路からすれば、総研系シンクタンクは給料ももらえて調査っぽいこともできる職場に見えて、しかも京大気質の自由な社風とくれば、持ち球のなかではベストな判断をしたと思うが、そもそもの持ち球に課題はなかったかと言われると言葉に窮してしまう。当時の僕は「新しい公共」的な空気のなかで「公は必ずしも官ではない」なんて粋がっていたが、仕事は官公庁の受託調査だった。

入社して2カ月目、種々の幸運が重なり、初めて書いた企画書で1,400万の仕事が受注できた。けれど僕にはプロジェクト進行能力が1ミリもなく、上司に散々迷惑をかけた。これは2年がかりの案件だったが、その後、このクライアントに提案した地方創生案件(1,000万)も総合計画策定支援(1,500万)も市街地観光の計画策定(1,400万)も全部コンペで落ちた。愛想をつかされたのだと理解している。

人に対する文句があまりに多いからか、社内で煙たがられていたところを、社歴30年の大先輩(大学の先輩でもある)に拾ってもらった。顧客に相対する態度、資料の量や質のコントロール、案件を着地させるためのネットワークなど、これが物事を前に進めるということなんだと感嘆した。

就活のとき、尊敬する人は誰ですかという質問がこの上なく苦手だったけれど、今ならさらっと打ち返すことができる。仕事という側面ではなるが、尊敬できる人に出会えたのは本当に良いことだ(自分にそうした感情があることを知って安堵した面も大きい)。

大学院時代、あれほど苦戦していたデータの整理や文字書きがさらさらとできるようになったのは、間違いなく初職のおかげだ。成果物はpower pointではなくwordが大半だったこともあり、伝えたいことは日本語で表現する必要があった。空虚な内容も含め、ひたすら日本語を書きまくったことは、ずっと大切にできる技術の基礎になったと思う。

人間性は1ミリも成長しなかった。最後は送別会で会社の文句をひたすら並べて、喧嘩別れのように飛び出してきた。会社を悪者にして自分を正当化していたが、実際は、自分自身「~がしたい」が見えていないがゆえに「~は嫌だ」を言い募っていただけに過ぎず、最低なことをした自覚がある。

転職したこと、上京したこと

初職の会社はとにかく辞める理由ばかりを探していて、いい感じの理由を見つけたのが入社3年目の10月。ここから転職エージェント5~6人と会った。一通り僕の話を聞いたあとでアクセンチュアを勧めてきたエージェントが複数人いた。当時のアクセンチュアは採用手数料に年収の50%まで出していた、らしい。800万の転職を1件決まれば400万円。

辞めたい気持ちはロケットが無事に大気圏外に出るために必要なのだけど、僕は永遠に宇宙を推進し続ける探査機ではないので、いい感じに着地をする必要があった。そのためには「ここがいい」という思いを整理する必要があり、怒ってばかりでは人生何ともならないと思い知った。

今の会社に決めたのは、端的に言うと自分の能力に自信がなかったからだ。シンクタンクの3年で、調査をして整理をして伝える力は身についたけれど、商売の勘所はなにもなかった。PFIアドバイザリーの仕事でCFの将来推計を出す作業でも門前の小僧レベルだった。

転職では食品流通を扱うベンチャー企業4社から内定めいたものをもらった。待遇だけで言えば結構いい会社もあった。自分でもビックリするような高いポジションで採用すると言ってくれた会社もあった。けれど僕は躊躇した。入社してすぐに、自分のプールが底をついてしまうと思ったからだ。

結局、大きな資金調達を一度決めて、60名規模まで膨らんでいた今の会社に決めた。決め手は現上司が話した「本当に小さな会社は、事業に関係ない雑務も多いし、一つ一つの芽がか弱くて失敗も多くて時間がかかるよ。うちぐらいがちょうどいいよ。勉強しに来なよ。」という言葉だった。酸っぱいブドウかもしれないけれど、この観点は僕にとってナイスな切り口だったと思う。給料は同世代と見劣りするし、SOも大したことないけれど。

辞める直前、仲良くしてもらっていた取引先の方からお茶に誘われた。「実はな、君を中途で採用できへんか、社内調整してたんや。けど一歩遅かったな。卒業前に先輩に告白する後輩みたいなもんや。ぜんぶ済んでから話してもしゃあないけど、話してすっきりしたかってん」と言われた。業務委託先の女社長(強い)にも激励してもらった。大学のときと同様、僕の周りにはたくさんの厚意があったけれど、彼らに何も返せなかった。

転職を機に上京した。僕は学生の頃、「東京」をまるで仮想敵のように捉えていた節があって、そうした気持ちは大学院修了の頃にはかなり和らいでいたけれど、まだそれでも、心理的な抵抗感が残っていた。わだかまりを解消するためには、体を張って東京で暮らして確かめてみることだ、と思った。

東京には東京の社会があった。関西とはプロトコルが色々と異なるから戸惑うことも多いけれど、徐々に要領をつかんできた。平たく言えば住めば都という話で、東京に対するわだかまりは、脳内に飼っている幻想の他人との対話の成果に過ぎなかった。

家族とか

父さんは長きにわたる転勤から解放され金沢に戻ってきた。そして定年を迎え、再雇用フェーズに突入した。母さんは来年で還暦を迎える。母さんと弟の2人暮らしは相当キツいものがあったようだが、弟も浪人の末に大学に入り、当然のような顔をして大学院に進み、今年の春から富山で働く。実家から車で1時間もかからない工場に勤めるという。弟には頭が上がらない。

母方の祖父はかなり老いた。自分で立ち上げた設計事務所は高度経済成長の波にうまく乗り、現役のころは本当にパワフルな人だった。昔からハゲてたけど。母方の祖母はまだ元気だけど、当然ながら、昔のように色々振り回すわけにはいかないと思っている。けれども、30歳になっても僕はかわいい孫なので、目いっぱい甘えることにしている。

父方の祖母は去年亡くなった。最後2年ほどは会っていなかった。父さんも来なくていいと言っていたし、その言葉に安堵している自分もいた。直後の日記を引用する。

生前の祖母は愚痴の多い人で、どれだけ父さんや母さんが面倒を見ても、結局は年長の兄弟に心を寄せてしまう人で、いま、自身に眼差しを向けてくれる人に感謝できない人だったことを思い出した。

これからのこと

両親から折に触れて結婚の話をする。まったくできる気がしない。けれど、前職の先輩(オタク)のケースとして、自分がタイプかつ先輩に対して反応しやすそうな属性の40人にメールを送り、16人から返信をもらい、6件並行して、1件成約させたというものがある。同じアプローチをやってみる価値はあると考えている。誰でもいいからアプリを使うんじゃなくて、誰でもよくないからアプリで母集団を増やすんだと思う。砂金取りと一緒だ。

そして着手するなら早いほうがいい。どんな試行でもとりあえず着手して、早く失敗して学びを得て、そこから考えたほうがよい。人生は終わらないアジャイル開発だ。

仕事も考える。今の会社は残業もないし悪い会社ではないが、ずっと在籍しているイメージがない。大気圏外に飛び出すほどの燃料はないので、新しい惑星の側の引力を相当に高める必要がある。まずいことに景気が後退局面に差し掛かっている。本当は2020年のオリンピックを節目にしようと思っていたけれど、前倒しで判断に迫られるような気がしている。

各論はあるが総論はないし、四半期目標は設定できても10年の大計はない。けれど、20代のような、振れ幅の大きい試行錯誤では蓄積が薄く広くなってしまうので後々しんどそうな予感がしている。もうすこしフォーカスを絞って、いっぱしのなにかを積み上げるようにしたい。

同じ釜の飯を食う

新卒で入社した会社の同期と集まって飲んだ。入社したとき14人いた同期は、4年半が経って6人になった。もう2回目の転職をした奴もいる。景気がいいからなせる業なのだけど、人は、思った以上に簡単に職を変えるということを、就職してから知った。

同期って、いい。「いい」の中身を具体的に書き連ねると、一気にありきたりなものになってしまうけれど、考え方や話の水準も、年齢も近くて、しかも、最初の顔合わせも共通の話題づくりも会社がおぜん立てしてくれた相手だ。こんな高精度な出会い系、なかなかない。大事にしていこうと改めて感じた夜だった。

結局深夜2時まで飲んで、タクシー相乗りで家まで帰る。有楽町から佃と豊洲を経由して門前仲町に向かう、実に効率的な相乗りルートだった。ふらふらになりながらすべてのアラームを切って、盤石の態勢で布団に飛び込む。昼まで寝ようと思っていたけれど、10時ごろに取引先からの電話でたたき起こされて、寝ぼけながら応答した自分の声はびっくりするほど酒で枯れていた。

メイヤーレモン

朝、出勤してLINEを開けると、野菜の注文が入っていた。今日中の納品希望と書いてあるけど、もう配送トラックは出発してしまった。

結局、自分で調達して、自分で運ぶことにした。社用車(中古の三段変速自転車)に乗って、築地場外に行く。場外は遅い時間(と言っても、まだ朝の10時だ)まで開いているので、レモンを19個と、食用菊と、小菊を買う。レモン19個なんて変な買い方をするのは業者しかいないので、店の人はしれっと値引きをしてくれる。買う側は「助かりました」と言いながらレモンを頼み、売る側は「10円引いとくね」と応える。朝から、いいリズムで買い物ができた。

荷物を背負って自転車に乗る。工事中の環状二号から虎ノ門方面へ。虎ノ門ヒルズの足元で再開発を待つ雑居ビルには、こぎれいなカフェがいくつも出店していた。アメリカ大使館の横を通り過ぎてホテルオークラの裏を抜け、六本木一丁目に。丹波谷坂という鬼のような急坂を自転車で突っ切って、六本木交差点を左折して西麻布へ。野菜や果物を抱えて六本木を走るとき、街の景色の一部になったような、ちょっと誇らしい気持ちになる一方で、この仕事を積み重ねた先にいったい何があるのかと、不安な気持ちにもなる。

お店で商品を取り出すと、それ、頼んでいたものと違うよと指摘される。慌ててLINEを見返すと、小菊なんてどこにも書いていなかった。

そのまま、キラキラしておいて

弟と一緒に、ファミリーセールというものに初めて足を運んだ。正規の販売ルートで買えばそこそこの値段がするスポーツアパレルのブランドでのセールなのだけど、弟に届けられた招待ハガキは、上野の現金問屋が処分市を開くかのような、青地に蛍光黄文字のビジュアルだった。

会場の雰囲気もハガキと似たり寄ったりで、かなりサイズや色に偏りのある商品が催事用のワゴンに積み上げられ、人々がせわしなく手にとっては適当にワゴンに戻している。原宿の路面店だったらあんなに丁重に扱われていたのに。美容室で手にするファッション雑誌のなかではあんなにキラキラしていたのに。立派なものであると印象付けるためには適切なお作法や振る舞いが必要で、それらをかなぐり捨てたナイロンバッグとパーカーは、Made in Vietnamのタグが生々しく迫ってくる。

電車の中で読む本が切れてしまったので、学芸大学駅前の本屋で宮部みゆきの『誰か』を買う。

義父はよくよく知り抜いているのだから。具体的な事象を離れて鳥瞰したとき、「何があったか」ではなく、「どのように見えるか」ということの方に心を寄せてしまう、世間というものの気まぐれさを。

という一節があって、昨日、銀座で見かけた、ものすごい剣幕で怒っている女性のことを思い出した。

まずは、楽しいところから

本を読むようになった。スマホを触らないようになり、手持ち無沙汰になる時間を埋めるように、文庫本の小説を読んでいる。読むのはもっぱら電車に乗っている時間やホームでの待ち時間で、細切れではあるけれど、毎日30分から1時間ほどのボリュームになる。400ページくらいの小説であれば、週に2冊ほど読むことができる。

小学校の頃は本当によく本を読んでいた。毎週市立図書館に連れて行ってもらい、10冊目いっぱい借りて、借りた当日に全部読んでしまったこともあった。テレビゲームの時間は制限されていたし、外でスポーツをする性分ではなかったので、ズッコケシリーズのような児童小説をよく読んでいた記憶がある。

中学生の頃は親が読んでいた宮部みゆきにハマった。『火車』とか『我らが隣人の犯罪』とか、中学生には想像しにくいテーマでも、とにかく興味深かった(クレジットカードも怖いな、とか)。あとは、同級生に勧められた宗田理『僕らの~』シリーズとか、重松清とか。

高校生になると、一気に読書量が減った。パソコンに興味が移ったこともあったし、部活動も勉強も大変だったこともある。たまに背伸びして新書を買ってみて、いまいち面白くなかったりした。

浪人生の頃は、志望校へのあこがれを膨らませるように森見登美彦を読んでいた記憶があり、そのまま大学生になっても読み続けた。ところが大学3回生ごろからは、大学生協の知的に関心が持てそうな学術書ばかり買うようになり、けれど大半を読まずにため込む不精な生活を送り、このころになるともう、1つの本を通しで読むことはほとんどなくなっていた。そんな体たらくで文系の大学院に進学し、ろくに本と向き合わないまま修士課程を終えた。

自分をいい感じに稼働させるためには、自分で自分の機嫌を取ってやる必要があることを、社会人になって知った。例えば僕は、トライアスロンをやっているけれど、走ることがどうも苦手で、走る練習はメニューから外してしまいがちだった。そんなときにピッチや心拍を追い求める練習を組んだって、一人では絶対にやらない。だから僕は、楽しく走れる範囲で取り組み、まずは走ることへの抵抗感を減らし、次第に練習量につなげていく作戦をもくろんだ。

この目論見はうまくいって、結果としてコンスタントに走る練習をするようになった(あまり心拍は上がらないけれど)。読書もそんなものかと思っていて、まずは楽しい範囲で読書を再開して、次第に小難しい本を手懐けるられるようになればと思う。

したこと

読み終えたもの