これは君のビジネスだから

仕入先の親父さんに「これは君のビジネスなんだから」と言われたとき、目が覚めるような思いがした。

夏の終わり、大田市場そばの雑居ビルで僕は、仕入先と打ち合わせをしていた。徐々に売上は伸びています、もっと数字を作りたいので新たな取組に着手しております、来月にはもう少しいい結果がご報告できるかと思います、新規施策が多いですが、引き続きお力添えのほどを、、そんな内容を報告していたと思う。

仕入れ先から調達している商材は、僕の勤め先にとっては全く未経験のカテゴリのアイテムで、僕はこの新規商材の担当を任されていた。自分で言うのは気恥ずかしいけれど、細かい対応を厭わない取組姿勢は仕販双方から評価されていて、立ち上げ当初は散々だった数字も徐々に安定してきた。僕は勤め先の名代として、実に忠実だった。

仕入れ先の親父さんにしてみれば、何気なく発した一言だったのかもしれない。けれど、勤め先の名代という立場に甘えて、行動規準の給源を外部(=勤め先)に委ね、自分がどうしたいか、考えることを回避していることに気づかないふりをしてきたからこそ、この言葉は僕の胸に強く刺さった。

 

終わりなき日常を生きる

部屋を片付けていたら、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』の文庫版を発掘した。

 

自分がどう振舞えばよいか、規準が失われてしまった社会で、コミュニケーションスキルの高さによってひたすら相対的な日常を泳ぎ続ける道と、なにか規準がないかと彷徨い続ける道があり、後者の一部を回収していったのがオウム真理教である、というケースを題材にしながら、じゃあ終わりなき日常をどうやって生きていけばいいのさ、という問いに答えようとした本で、もう四半世紀近く前の本になるのに、いま読んでも全然色褪せない魅力がある。

 

この本が出版された段階では、終わりなき日常をどう生きるか、という問いに対して「まったり生きろ」という解を筆者は提示しているが、その解は実は全然強度がなかったというのは筆者も認めるところ(=ブルセラ少女はメンヘラ女性になってしまった)。

 

結局、意味のない社会には耐えられない僕たちがいて、であれば、何か意味を内面化しろ、そしてそのあとで相対化しろ、という主張に筆者は路線変更していくのだけど、この作業は存外にキツい、というのもまた経験的に理解されるところ。

 

僕が高校生の頃(ゼロ年代の中盤だ)、成績がよい同級生は軒並み、医学部進学を目指していた。それは、長引く不況でサラリーマン総崩れのなかで、医学部だけが明らかに「カタかった」のもあるけれど、命を救う営為に従事しているうちは、(大筋では)自分のやってることの意味を考えなくて済むという精神衛生上のメリットも、ハッキリと言明している奴はいなかったが、情緒不安定な高校生には大きな魅力だったのだろう。

 

僕は農学部に進学したが、その背景には、同様の理由があったのだと思う。つまり、命を救う営みが「飯の種」と「正しさ」を供給するのと同様に、食に携わる営みもまた、外的な規準として機能しうるということだ。

 

そして、それは僕だけではなく、割と広範にみられた現象だと思っていて、『もやしもん』人気であり、農学部への進学ブーム(そして新設ラッシュ)であり、新規就農や食や農を扱うベンチャーの登場に表れている。

壊れる

今年は色々なものが壊れる。

 

泳いでいるとき、無理な動作で水を掻き切って広背筋を痛めたのは4月。

 

自転車で青森まで行った際、前傾姿勢を取り続けて首の神経を痛め、指先がしびれることになったのは5月から。

 

横浜トライアスロンのバイクパート、開始500mで金属を踏んでバイクがパンクして以来、パンク癖が治らず、結局タイヤ交換に。

 

きちんと蓋をしていなかったせいで、ばあちゃんからもらったらっきょ漬をガラス瓶ごとダメにしたのが8月の頭。

 

急冷させようと思って冷凍庫に少しだけ保管しておくつもりが、取り出し忘れて自壊させてしまったのは冷茶のガラス瓶。

 

夏休み前日に大田市場で転んで粉砕したのはiphone、痛めたのは右の手のひらと左の膝。

 

何かが壊れるたび、補修にはお金と時間がかかって、乏しい暮らしの余裕がますます失われていく。そして、生じた焦りが次の破壊の引き金を引く。頭ではわかっているのに、抜け出せない。

山に登る

実家から歩いて15分くらいの高台からは金沢の町並みが一望できて、僕はその景色がお気に入りだった。高台の斜面には畑が広がっていて、畑の向こうには並木のきれいな幹線道路が走り、その向こうは海まで町が続いている。

 

高校生だった僕は、この景色を守る仕事をしたいと考えていた。いや、いま思えば、感傷的で観念的だった僕は、景色からそういう意味を見出すことで、伸び悩む学業成績のもとで揺れる進路を固めたかったのかもしれない。

 

僕は、その時々で、自分が大事に思う人をこの高台に連れてきた。自分が大事にしているものを、その人と共有したかったのだと思う。中学からの親友、高校時代に付き合っていた人、大学時代の友人。もう10年近く、一緒に高台に上った人はいない。

 

この夏、久しぶりに高台へ上った。一望する金沢の町は、僕以外の誰かによって、丁寧に維持されている。僕は東京で24平米の部屋に住みながら、小さな会社で日常に流されている。この景色を守るわけでもなく、何かを生み出すわけでもなく。

転んだ

大田市場からの退勤途中、乗ろうと思ったバスにタッチの差で乗りそびれ、次のバス停で追いつこうと走り出した瞬間、足がもつれて派手に転倒した。

 

左手に握っていたiphoneはガラスが粉々になり、中のパーツがむき出しになった。右手は手のひらを思いっきりレンガ舗装の歩道に擦り付けて、大きな擦過傷を作ってしまった。

 

痛くて涙が出そうになったし、真夏の真昼に、誰もいない大田市場で一人こけるシチュエーションが悲しすぎて泣きそうになった。のだけれど、泣いても誰も反応しないのだと思った途端に、涙が引っ込んだ。

 

誰かに甘えたくて僕は泣こうとした。けれど、その誰かなんて存在しないので、僕は泣くことをやめた。そう理解したとき、これを引き受けてあと50年生きるの、しんどいな・・・と思ってしまった。

 

 

 

 

ジムの帰りに、学芸大学駅前の八百屋で桃を買った。
3個で600円、今の稼ぎを考えると贅沢品なのだが、これも芸の肥やしだと、自分に言い訳をして財布を開く。

 

10年前の夏、僕は京都の駿台で浪人生活を送っていて、教室に詰め込まれた100人の同類を前に、現代文の講師が桃への熱い思いを語っていたことを思い出す。
「私はね、桃がすごい好きで、夏になると、毎日1個食べるんですよ。割れ目に沿って包丁を入れて、手でくるっと回すと半分に割れるんです。毎日桃を食べるなんて、皆さんからみたら贅沢だと思うでしょ。でもね、1個100円、これが自分へのご褒美なんですよ」

 

進学校を卒業したばかりの当時の自分は、そもそも予備校の講師という仕事を馬鹿にしていたし(受験を突破するためのノウハウの伝授に人生を捧げるなんて、と本気で思っていたのだ)、発言から垣間見える講師の小市民的ぶりに、苛立ちに近い感情すら抱いた記憶がある。先生、人生それでいいんですか。

 

あれから10年、29歳になった僕は、築40年のワンルームマンションで桃の割れ目に包丁を入れる。桃に喜びを見出す日常に、そして、その桃すら買うことを躊躇してしまう現状に、こんなはずじゃなかったのにと思いながら、桃を食べている。